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2018.12.25 NEW

“聞き上手だけど契約が取れない人”が産業医に転身、尾林誉史の花開いた力とは?

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ビジネスパーソンの精神衛生を支える産業医の役割は、重要度を増すばかり。30歳を目前に産業医に転身した尾林は、魂をこめて企業人の心に寄り添う。

本編に入る前に、まずは産業医という職業について簡単に説明しておく。産業医とは、労働者が職場で健康かつ快適に仕事を行うために指導や助言を行う医師のこと。50人以上の従業員を抱える企業(事業場)には産業医の在籍が義務付けられており、社内の衛生環境チェック、安全衛生委員会への参加、そして従業員の健康相談や休職面談などが産業医の主な業務となる。

一般企業での勤務を経験した後、産業医に転身。現在は月曜から木曜まで長崎県の病院で精神科の臨床医として働き、金曜日は首都圏近郊の企業で産業医をつとめる、という異色のスタイルで活動している産業医の尾林誉史氏に話を聞いた。

尾林先生は5年間企業に勤務した後で医学部に入り直し、そこから産業医にキャリアチェンジをされています。企業人から医学を志すにあたって、何かきっかけはあったのでしょうか。

私は入社後から一貫して営業だったんですが、「アポはとれるけれど受注はとれない人」という非常に不名誉な称号をいただいていました(笑)。つまり、話を聞きだすことはできるけど、契約が取れない。話はものすごく盛り上がるんですが、いい話し相手で終わってしまうんです……。

僕個人としては、お客さんととことん話をする時間に充実感を感じていましたが、会社員としては何の成果も挙げられていない。2、3年目ぐらいからは「アポは取れるけど受注が取れないようじゃだめだし、かといって営業マンを極めたいというマインドがあるわけでもない。どうしたらいいかな」とずっと悶々としていました。

そんなある日、メンタルを崩した後輩の付き添いで、産業医面談を受ける機会があったんですが、そこで「人の話をとことん聞いてあげることが産業医の仕事なんだ」ということを知り、ふっと神が降りてきたような気分になったんです。そのときから、自分には産業医のほうが向いている、と思うようになりました。

まったく別職種への転身。周囲の反応はいかがでしたか?

脳外科医や心臓外科医ならまだよかったのかもしれませんが、「なりたい」と言い出したのが産業医。産業医が、まわりの人たちにとって理解しにくい存在だったせいか、「せっかくここまでやってきて、これからというときに何を言っているんだ」と職場の人から猛烈に反対されました。

ただ、5年間の企業勤務で「自分が持っている長所は、人ととことん付き合えるところ」だと痛感していたので、迷いはありませんでした。とはいうものの、親には話しにくくて、数カ月内緒にしていました(笑)。

大学時代の専攻は理学部。理系科目の素地はあったにせよ、医学部の受験勉強は大変だったのではないでしょうか。

とりあえずセンター試験の準備をしなければと思い、最終出勤日の翌日から大学の図書館に通い詰めて、ひたすら勉強していました。でもあとから2、3年次からの編入が可能な学校があることを知ってびっくり(笑)。そんなことも知らずに会社をやめたんです。

私が入学した大学は当時倍率が30倍ほどあったんですが、面接で“人柄”の部分が重視されていたことが私にとってはよかったのかもしれません。退職した年の10月に合格の報が届きましたが、合格したというより拾っていただいたという気持ちのほうが強かったです。

産業医としてのキャリアをスタートされたのは2013年。その頃はどんな理想像を持たれていましたか?
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他の科の先生たちのように、“命をかけて業務にあたる”産業医を目指そうと思っていました。でも現実は、産業医は同業者の中でも下に見られがちな存在。医大の先生に「産業医になりたい」と前のめりで話しても、「楽だもんね」みたいな感じで、想像以上に冷ややかな反応を受けていました。

実際、さまざまな現場でさまざまな事例を見聞きしても、多くの産業医がドクターとしての本業でなく“バイト感覚”で勤務しているという印象。面談対象者の履歴書や人柄、バックグラウンドを把握することもせず、たった数分の面談で休職や復職を決めてしまうようなこともあるようです。

でも、面談を受ける側からしたら、人生の大きなターニングポイントになるようなときに、そんな人に診てもらうことを望んでいませんよね。だったら医師ではなく、経験豊富な人事担当者や労務担当者が面談をしたほうがいい。そんな現実を変えたいと思ったんです。

理想と現実の壁を乗り越えるために、どのようなアクションを起こされましたか?

最初の1年は、モデルケースや教科書がない中で、とにかく試行錯誤していた感じですね。そうした中で、産業医には医学的知見だけでなく面談対象者に対する深い洞察が必要だと感じたんです。そのため、時間をかけて人事労務担当者の方とすり合わせをし、対象者の上司や同僚にもヒアリングを行うことを心がけました。

現在では、休職している方の復職訓練の一環として、職場や自宅近くの喫茶店で面談することもありますし、ウェブ面談や電話面談も行っています。普段、長崎にいるので苦肉の策で始めたのですが、平日はほぼ毎日やっていますね。

それでも従業員の中には、産業医に面談を申し込むことに抵抗を感じる方もいると思います。そうした障壁を取り除くために工夫されていることはありますか?

敷居を下げることは常に意識していますね。会社によってやり方は変わるんですが、全社員さんの前で紹介してもらうようにしたり、肩書きを「産業医」でなく「ヘルスケアサポーター」としたり、できるだけラフな格好をしつつ「よろず相談請負人」みたいな感じで社内を練り歩いたり……。社員の前で紹介してもらった際に、「いつでも来ていいよ」と言ったおかげで、面談希望者が殺到したという嬉しいケースもあります。

親しみやすい雰囲気と優しい語り口調。こうやってお話をうかがっていると、尾林先生に相談してみたいと思う気持ちはわかります。

ありがとうございます。企業勤務の頃は、なかなか商品を売ることができなかったのですが、いまはみなさんが診療後や面談後に生き生きとした表情になったり、「気持ちが楽になりました」と言ってくれたりするだけで、十分対価を得られていると感じます。

私にとっては、それが会社で言うところの「受注」のようなものですね。だからこそ、受注をいただくために尽くせる手段を尽くしているつもりだし、その中核にある「言葉」というものをとても大事にしているつもりです。

言葉を大事にするというのは、具体的にはどういうことでしょう。
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言い換えると、「発する言葉を、いかに緊張感を持って選ぶか」ということですね。私が軽率な言葉を発すると相手はすぐに表情を変えますし、面談後の雰囲気も不完全というか「これ、意味あったんだっけ?」といった空気感になってしまう。形だけの言葉で、魂のこもっていない面談をやっていたら、私の寿命が縮みます。だからこそ、そのときの感情を誤解なく伝える言葉を、それこそ一語一語ひねり出すように選んでいます。

言葉といえば……。実は大学時代、コピーライターを目指していたんですよ。言語で伝えるコミュニケーションに興味があって、養成講座に通って某大手広告代理店一社に絞って採用試験を受けました。2年連続で落とされましたけど(笑)。

日本の産業医の有資格者はおよそ9万人。しかし、日本の働き手の人口からすると少なくとも16万人の産業医が必要だと言われています。働き方改革が進む昨今、一人の産業医としてどのようなチャレンジをしていきたいですか?

まずは、働くことの辛さを知っている社会人出身の医師、特に精神科医に、産業医の魅力やエッセンスをどんどん伝えていきたいですね。

それと産業医を雇う義務のない会社に対して、どうアプローチしていくかも課題の1つです。現状で産業医が義務づけられているのは大企業のみですが、数名あるいは10数名の会社であってもメンタルの問題が起きるリスクは同じ。義務もない、予算もない、でも社員の中に問題を抱えている人がいる、という状況を変えるためにどうすればいいかを考え、行動していきたいです。

大企業に関しては、従業員が多くなるほど一人一人への関わりが希釈されていく印象があるので、しかるべき担当者の方に一人一人をサポートしていく視点を持っていただきたい。もちろん、そうした流れをサポートしていくのも産業医の役目だと思っています。

最後になりますが、産業医の視点からEL BORDE世代のビジネスパーソンと接していて感じることや、アドバイスがあればお願いします。

精神科の臨床でも、産業医として活動しているときでも、「Will・Can・Must」のうちのWillが欠如した方が多いと感じます。Canは得意なこと、Mustは求められていること、そしてWillはやりたいことなんですが、ここがふわっとしている人は自分自身に対する「しっくり感」が持てずにいる印象を受けます。
私も営業だった頃は、自分の価値や強み、やりたいことと仕事とのギャップに相当悩みました。強みとやりたいことをしっかり見つめる意識があれば、1~2年早く医学部に入っていたような気がしますね。早く気付かないと損だよという話ではないのですが、自分の腑に落ちるもの、しっくりくるものをとことん探したほうが、悔いのない充実した人生を送れるのではないでしょうか。

尾林 誉史(おばやし たかふみ)
1975年生まれ、東京都出身。開成高校、東京大学理学部化学科を経てリクルートに入社。2006年に退職し、弘前大学医学部の3年次に学士編入。現在は長崎市にある医療法人厚生会道ノ尾病院に臨床医として週4日勤務し、金曜日を産業医業務にあてている。家族は妻、2女。長崎と東京を往復する忙しい日々を送るが、東京の自宅に戻る土日は、できるだけ家族サービスにあてるようにしているとか。
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