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歴史から学ぶビジネススキル|徳川家康の天下統一を支えた徳川四天王が残した教訓

歴史から学ぶビジネススキル|徳川家康の天下統一を支えた徳川四天王が残した教訓のイメージ

2023年にテレビドラマ化され話題となっている徳川家康(1542 ~ 1616年)。戦乱の世に終わりを告げ、260年以上の長期政権として君臨した江戸幕府の基礎を築いた初代将軍だ。熾烈な戦国時代を生き抜いた家康の天下統一には、優秀な家臣たちが一翼を担っていた。

なかでも「徳川四天王」と呼ばれる、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政は傑出した力量の持ち主で、敵の武将からも一目置かれる存在だったといわれている。

では、家康を天下人へ押し上げる原動力となった徳川四天王が発揮したスキルとは、どんなものだったのだろうか。

今回は、戦国時代に関する多くの著書があり、さまざまな歴史ドラマに史料を提供してきた、静岡大学名誉教授の小和田哲男さんに、徳川四天王のそれぞれの役割や象徴的なエピソードを伺った。現代のビジネスパーソンが参考にできキャリアアップにもつながる秘訣を、四天王の活躍や事例から探っていこう。

徳川家康と徳川四天王の天下取りまでの道程

まずは、家康とその家臣団が生きた時代について軽くおさらいしておこう。

家康をはじめ、各地の武将たちが勢力争いをした「戦国時代」。織田信長や豊臣秀吉の台頭は、教科書や小説などでもおなじみだ。

この乱世を、家康はどのように生き抜いたのだろうか。

家康は、よく苦労人といわれる。その定説として知られているのが、青少年時代を人質として過ごしたことだ。しかし、小和田さんは人質でありながらそれほど虐げられてはいなかったと考える。

「8歳から19歳までの駿河・遠江(現在の静岡県中部・西部)の戦国大名・今川家での人質時代は、実は『優遇された人質』であったと思います。家康にとってこの時期は、今川義元配下の軍師から先進的な兵法などを学習できる時間でした。兵法、すなわち戦略的思考を身に付け三河(現在の愛知県東部)に戻ったとき、家臣たちの家康を見る目が変わったのです」

当時の松平家(徳川に改姓前の家名)は、家康の祖父が家臣に暗殺されたのを機に衰退し、隣接する尾張(現在の愛知県西部)の織田家や甲斐(現在の山梨県)の武田家という強国に脅かされていた。跡目を継いだ家康の父は、隣国の織田家と対峙するためにも、今川家の傘下に入ることを余儀なくされた。その従属の証しとして、家康を人質として差し出す必要があったのだ。

このような状況だったがゆえに、三河は弱小国であった。そんな中で一回り成長した当主が戻ってきたのだ。

弱小の松平家が大きくなったのは、三河武士がひとつになり、なんとか家康を盟主にして戦国の世を生き残ろうという、徳川家臣団の考えがあったからだろうと思います。これが『鉄の結束』ということです」

下剋上や裏切りが当たり前の戦国時代に、鉄の結束を誇った「三河武士魂」を持った家臣団が家康を盛り立てたのだ。また小和田さんの考えでは、家康も家臣を大切にしたといい、それを象徴するエピソードを語ってくれた。

「ある日、秀吉が大名たちに自分の秘蔵の品々を自慢して、家康にどんな貴重品を所有しているのかと尋ねました。すると、『田舎者だからそのような高級品は持っていないが、自分に命を預けてくれる500騎の部下がいる、それが何物にも代えがたい秘蔵の品だ』と家康は答えたそうです」

「徳川十六神将」「徳川二十八神将」など、功臣の忠誠ぶりを象徴する言葉が後世に伝わったように、家康にとって、自分と苦楽をともにし、支え続けてくれた部下こそが最高の宝物だったのだろう。

その後、家康は信長、秀吉と同盟を結び、台頭していく。そしてついに、60歳を過ぎて名実ともに天下人となったのだ。

家康の主な経歴も見てみよう(図1)。

図1:徳川家康の関係年表から抜粋した主な出来事
1542(天文11) 松平竹千代(後の徳川家康)、三河国岡崎城主・松平広忠の長男として誕生
1549(天文18) 松平広忠が没し、今川義元の人質となり駿府へ。酒井忠次も同行
1560(永禄3) 桶狭間の合戦で、今川義元が織田信長に討たれ、岡崎城から今川軍が退去したため、岡崎城へ帰る
1563(永禄6) 名を家康と改名
1564(永禄7) 前年から続いた三河一向一揆を平定。酒井忠次、本多忠勝が活躍し、榊原康政が初陣を飾る(と伝わる)
1566(永禄9) 徳川と改姓する
1570(元亀元) 姉川の合戦。織田信長軍と連合し浅井長政・朝倉義景連合軍を破る。榊原康政が活躍
1572(元亀3) 一言坂の戦い。武田信玄軍に敗れるが、本多忠勝が撤退戦で活躍
同年 三方ヶ原の戦い。武田信玄軍に大敗し、多くの家臣が討ち死に
1575(天正3) 長篠の戦い。織田信長軍と連合して武田勝頼軍と戦う。酒井忠次の策もあり、武田軍に壊滅的な打撃を与える
1582(天正10) 本能寺の変。織田信長が明智光秀に討たれる。本多忠勝、榊原康政、井伊直政らと 「伊賀越え」を行う
1584(天正12) 小牧・長久手の合戦。豊臣秀吉軍と戦い本多忠勝が活躍
1590(天正18) 豊臣秀吉から関東への転封を命じられ、江戸入城
1600(慶長5) 関ヶ原の合戦。井伊直政が活躍
1603(慶長8) 征夷大将軍となり、江戸幕府を開く
1614(慶長19) 大坂冬の陣。豊臣秀頼軍と戦う
1615(慶長20) 大坂夏の陣で豊臣秀頼軍と再度戦い、破る
1616(元和2) 死去

出典:ホビージャパン『チャートと地図でわかる 徳川家康と最強家臣団』(監修・小和田哲男、著者・小和田泰経)、国立公文書館「徳川家康―将軍家蔵書からみるその生涯―」をもとに編集部作成

家康の壮年期において、特に戦果を挙げたのが酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政の4人だ。この活躍から、彼らは後に「徳川四天王」と呼ばれるようになった(注1)

(注1)「徳川四天王」という表記は当時の資料にはなく、江戸時代になって、仏教に由来する東西南北の守護神である「四天王」から名付けられたと考えられている。

彼らは武力を行使するだけにとどまらず、情報操作や外交交渉、組織のマネジメント、戦後処理など、当時の領地の経営と拡大に必要な役割をそれぞれが担当し、家康をサポートしていた。

それでは、徳川四天王の歴史上のエピソードを具体的に小和田さんに解説していただき、彼らが発揮したスキルと、それが現代のビジネスでどのように役に立つのかを具体的に見ていこう。

相手に合わせた柔軟な発想力が信頼を得ることに通じる

徳川四天王、家康家臣団のリーダーといえるのが酒井忠次(1527 ~ 1596年)だ。家康の叔母の夫である忠次は家康より15歳年上で、幼少の家康が今川家の人質として駿府に向かったときも、最年長の家臣として同行している。小和田さんは「家康からみると年の離れたお兄さんだった」と見立てる。

家康の天下統一のサクセスストーリーに、忠次の貢献は欠かすことができないと小和田さんは語る。
「三河国の弱小武将であった頃からずっと補佐役であり相談役でもあった忠次の意見をよく聞き、重用していました。会社設立期から創業トップと一緒に歩んできた副社長のような存在だったともいえるでしょう」

では、トップを補佐するためには、どういったスキルが必要だろうか。小和田さんは、家康が信長とともに戦った長篠の戦い(1575年)を例に挙げる。

「忠次は、信長の家臣でも考えつかない奇襲作戦を提案しました。信長が武田勝頼軍の騎馬軍団に抵抗するために設置した馬防柵の前に、敵をおびき寄せるというアイディアです。忠次は策をほめられ大将に任じられ、後に家康と信長の交渉を一手に任されるようになりました」

ビジネスシーンにおいても、プレゼンや打ち合わせのためにアイディア出しを求められることは多々ある。忠次のように、相手の考えに合わせた柔軟な発想力を発揮するのは、厚い信頼を得ることに通じるだろう。

大胆な行動力と冷静な判断力はトップを救う

徳川軍団随一の武闘派といわれ、「蜻蛉切(とんぼきり)」と呼ばれた長さ6mもの大槍を振り回したという本多忠勝(1548 ~ 1610年)。生涯で50以上もの戦場で戦ったが、一度も傷を負ったことがないと伝えられている。

小和田さんは、三方ヶ原の戦いの前哨戦である一言坂の戦い(1572年)の例を紹介してくれた。戦国最強と名高い武田信玄に家康が敗れた戦いだが、この窮地に忠勝はどのような活躍を見せたのだろうか。

「撤退戦でしんがりを務めて、武田軍を防ぎました。この武者ぶりを見た武田家の家臣たちは『家康に過ぎたるものが二つあり、唐(から)の頭に本多平八』と歌を残しました。唐の頭とは、家康が南蛮渡来の珍品である南アジアに生息するヤクの尾の毛をあしらった兜を着けていたことを表します。そこに、本多平八(忠勝の通称)の活躍を被せ、家康には分不相応だといったわけです」

忠勝が奮闘した姿は、武田家の歴史書にも絶賛する記述が残されている。

しかし、忠勝は単なる武勇一辺倒の人物ではなかったとして、小和田さんは、家康の三大危機のひとつといわれている「伊賀越え」のエピソードを紹介する。

「『本能寺の変』で信長が明智光秀に討たれたとき、家康はわずか34人の部下とともに堺に滞在していました。知らせを聞いた家康は、信長死すという知らせにパニックに陥り、京都で明智軍と一戦を交えるか自死すると言い出しました。しかし忠勝は、その無謀な意見を諫めて三河への帰還を主張。家康もこれを聞き入れて『伊賀越え』を実行します」

ビジネスにおいても、緊迫した状況では周囲の状況を冷静に見極めることが大切だ。また、最適解を導き出したと思ったら、たとえトップと意見の相違があっても直言する姿勢も見習いたいものだ。変化が激しいビジネスシーンを生き抜くためには、忠勝のように動と静を備え、正しいと考えれば辛辣な意見を主張できる人材が求められる。

インテリジェンスな発想やネゴシエーションも重要

徳川軍団のなかで特に頭脳戦に長けていたのが家臣・榊原康政(1548 ~ 1606年)だ。家康と秀吉が戦った小牧・長久手の戦い(1584年)が好例だと小和田さんはいう。

「康政は戦いの際に、秀吉を誹謗中傷する文章を豊臣軍の武将たちに送り、挑発したのです。これに激怒した秀吉は、康政の首に褒美を出すといいました。康政の行動は相手の動揺を誘うことにつながり、その後の戦いにおいて少人数で秀吉の大軍を迎え撃つことができたのです」

康政のインテリジェンスに富んだ戦略が実を結んだのだ。

さらに、小和田さんは康政の別の側面も指摘する。

「『関ヶ原の戦い』で、家康の息子の秀忠は、信州・上田の真田昌幸を攻めあぐねたため関ヶ原への到着が遅れてしまいます。これに怒った家康は謝罪する秀忠との面会を拒絶しますが、秀忠の参謀である康政が『全ては自分の責任である』と申し出たのです。責任をかぶったのですね。これにより、家康と秀忠は和解することができました」

経営陣内部の対立は、社内派閥を生み出し組織の瓦解につながりかねない。それを康政は、全ての責任を自分が負うことでほころびを未然に防いだ。このような人間的な器の大きさは、同僚や部下たちの結束力を高めるのに効果的だ。また、社内外の人間をある意味で上手に操り、トップのため、組織のために良き方向に向かわせることができるインテリジェンスは、代えがたいビジネススキルではないだろうか。

ライバルをも掌握し戦力とする度量が必要

これまでの3人は皆、三河出身であり松平家を見守ってきた古参であった。しかし、最後に紹介する井伊直政(1561 ~ 1602年)は、元は今川家の重臣の家系で、家柄も良かったそうだ。「顔立ちも良く、家康に気に入られ、その後抜擢されていった」と小和田さんは添える。

異色ともいえる経歴の持ち主である直政の秀でたことを表す事例が、軍隊編成の1つ「井伊の赤備え」だという。

「家康が、武田勝頼の死を弔うため菩提寺(先祖を祭る寺)をつくったことで、武田臣下が家康になびいたといいます。その後、武田遺臣800人は徳川軍に受け入れられます。家康はそのうちの1割を占めた「赤備え」(注2)を直政に預けました。度量を見込んで起用したのでしょう」

(注2)「赤備え」は、武具を全て赤一色に統一した軍団。戦場で火のような勢いの戦いぶりで恐れられた精鋭で、三方ヶ原の戦いで家康らを追い詰めた。

直政は元ライバルである武田家の武闘派を取り込み、「井伊の赤備え」として生まれ変わらせ戦力化するという困難な仕事をやり遂げたのだ。直政自身も三河勢とは出自が違い、旧武田の家臣らに通じるところがあるのもおもしろい。

直政はさまざまな戦で活躍したそうだ。「高天神城の戦い(1581年)でも手柄を立てました。その後、家康が関東に入った際、12万石を与えられています。徳川家臣団のなかでは最高です。忠次が引退していなければ同じくらいもらっていたでしょう」と小和田さんがいうように、成果は報酬につながるのだ。

高いスキルを持った人材が常に求められるのは、戦国も現代も同じだろう。現代でも、違う部署からの異動はよくあることだ。転職も身近なこととなり、競合他社へ移るといった例もある。新しい環境では、前職の社風や経歴を気にするのではなく、同じ組織の一員として一致団結し、チーム力を発揮するほうがもちろん良いだろう。直政と赤備えのように、お互いを受け入れる度量があれば、精鋭集団となることも可能だ。

自身の能力・強みを見極め、それをどのように生かすかが重要

このように、徳川四天王にはそれぞれ特徴的なスキルがあり、家康は状況に合わせて適材適所で彼らを起用していった。局面ごとに発揮される家臣の力量が、組織の運営にうまく活用されたところに徳川軍団、三河武士の強さと結束力があったのだろう。

さらに、忠勝のエピソードに見られるように、忌憚(きたん)なく意見を言える関係性を主君である家康との間に築いていたことも重要だ。家康も、自分より年上の忠次、年齢が近い忠勝と康政、年下の直政と、年齢層により異なるスキルをバランス良く配置することで、トップダウン一辺倒にならず風通しの良い環境が形成されたのだ。四天王以外にも、家康が魅力的な家臣を数多く抱えていたことも忘れてはならない。

また、小和田さんによると「家康は書をたくさん読んで天下を取った」という。

「家康の読書量は幼少期からすさまじく、本を買えるようになると儒学、政治論などを読んでいました。特に歴史書はよく読みこんで、先人たちの知恵を身に付けていたことが家康の強みなのです。本のこととなると、敵対していた上杉景勝の家臣の直江兼続が持っている本(『群書治要』:中国・唐時代の政治の参考書)を見たいと手紙まで出すほどでした」と、その旺盛な知識欲を語る。

総括すると、家康が天下統一を成し遂げられた理由には、ここ一番で発揮した家臣の能力、家康自身の他者を受け入れる包容力と勤勉が挙げられる。

家康と四天王の関係や各々のエピソードから得られる教訓は多く、現代社会に通じることが浮き彫りになった。自分の能力・強みを正しく見極め、それを組織でどのように生かせるかを考えることは大切だ。また、他のメンバーとの連携により、チーム力の向上を図ることも欠かせない。そして、時にトップと意見を交換し、トップダウンだけでなくボトムアップもできるような風通しの良い環境の構築こそが、ビジネスの秘訣の1つといえるだろう。成果が報酬をもたらすことも歴史が証明している。

ビジネスシーンは常に変化する。しかし、一度立ち止まり、過去の偉人たちのスキルやアイディアを学んでみてはいかがだろうか。

【お話をお伺いした方】
小和田 哲男(おわだ てつお)
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