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2020.03.23 NEW

“30代は大暴れしろ、迷ったら面白い方に進め”―カヤック・阿部晶人が貫く信念

“30代は大暴れしろ、迷ったら面白い方に進め”―カヤック・阿部晶人が貫く信念のイメージ

神奈川県鎌倉市に本社を構える面白法人カヤックは、その名のとおり「面白さ」に特化したコンテンツを制作するクリエイティブ集団だ。その中でも特に異彩を放つクリエイティブ・ディレクター阿部晶人(あべ あきひと)は、数々のユニークな広告企画を世に送り出してきた人物。

世界的な広告賞を受賞した過去がありながらも、40歳のときには大好きな「剣道」の世界大会誘致のために、当時勤めていた広告代理店を辞めたという……。不思議な経歴を持ち、変わった企画を実現まで突き通してしまう阿部晶人とは、いったいどんな人間なのか。

彼がカヤックに所属するよりも前の半生に焦点を当て、秘められた信念を探るため、じっくりと話をうかがった。

剣道を習うキッカケは、“スカートを履きたい”

まずは、どんな学生時代を過ごされていたのでしょうか?

姉と妹の影響なのか、「なんで自分だけスカートを履けないんだ」みたいなことを真顔で言っていたようです。それで親がビックリしたらしく、僕は小学1年生から剣道を習うことになりました。精神を鍛えるのと、スカートを履けるということでちょうどよかったらしいです。

スカートを履きたい意向を汲んでくれたのは素晴らしいですね(笑)。

中学生の頃は生徒会長をやっていました。けど、高校受験に失敗して、「生徒会長が落ちた……」みたいになって。その時に、ちょっと頑張ろうかなと心機一転して、私学の留学試験を受けてテキサスに行くことにしました。

剣道を習っていた阿部さんですが、アメリカ留学で何か影響を受けたことはありましたか?

どちらかというと影響を受けるというよりも与えていたという方が正しいかもしれません。剣道の他にも書道や茶道などもやっていたので、日本の文化を常に発信していましたね。食堂を借りて日本料理パーティをしたり。

日本から剣道具を送ってもらって、毎日体育館や教会の前で素振りをしていたので、自然とみんなが集まってきて「日本からニンジャが来たー!」みたいに盛り上がってくれました。

アメリカに染まるどころか、日本文化を広めていたんですね! 大学時代はどんなことを学んでいたんですか?
阿部 晶人のイメージ

日本に帰ってきて、慶應義塾大学に入学しました。SFC(湘南藤沢キャンパス)では、メディアアートを学んだり、プレイステーションのゲームを制作したり、全日本剣道連盟の役員をやっている先生がいたので、剣道の啓蒙活動のお手伝いをしたりといろいろやっていました。

剣道の啓蒙活動とは、具体的にどんな事をされていたんですか?

その頃はインターネットの黎明期だったので、最先端の“インターネット”と歴史の古い“剣道”を掛け合わせたら面白いなと思って、剣道のホームページを作っていました。たしか、当時はまだYahoo!がスタンフォード大学の、“曙(akebono)”と呼ばれていたサーバーを使っていた頃です。Googleはまだありませんでした。

インターネット時代の最先端を走っていたんですね! その頃は、剣道のホームページなんて珍しかったんじゃないですか?

当時、個人が作るWebページは、自己紹介のページばかりだったので、剣道のホームページなんてなかったですね。そこで剣道のルールとか逸話を集めたページや、宿帳みたいに名前やひと言を書き残せるページを作ったところ、世界中の剣道家たちがたくさんメッセージをくれました。

キャッチコピーは「アキバに幸あり」

大学卒業後は電通に入社、クリエイティブ局に配属されていますが、いまの企画力はここで磨かれたのでしょうか?
阿部 晶人のイメージ

そうですね。コピーをたくさん考えたり、CM構成の4コマ漫画をたくさん描いたり。「まだ5分あるからあと何本コピーを書こうかな」みたいな。妥協できないですし、とにかく修行だと思っていました。

当時手掛けたクリエイティブで印象に残っているプロジェクトはありましたか?

1つ挙げるなら、「秋葉原電気まつり」(2001年)ですかね。秋葉原の電気街が年末にやっている大きなプロモーションで、はじめて自分が中心となって担当した案件でした。

ちなみに、どんなクリエイティブだったんですか?

毎年、若いアイドルを中心とした有名人を呼んでいたんですけど、僕は「小林幸子さん」を提案したんです。いつも煌(きら)びやかな衣装を着ているイメージがあるじゃないですか。だから、電気でとにかくギラギラの衣装を作ったり、「秋葉原電気まつり」っていうメロディを作って歌ってもらったり。キャッチコピーは「アキバに幸あり」にしたんです(笑)

かなりインパクトのあるコピーですね(笑)。達成感はありましたか?

そうですね。自分で担当する範囲がこれまでよりかなり広かったので、それが成功してとても嬉しかったです。

それから、電通では初となるウェブプランナーになったと拝見しました。ウェブプランナーとして阿部さんが手掛けた代表作を教えていただけますか?

当時すでにウェブをやっていたクリエイターは会社にもいましたが、ウェブプランナーという肩書きは私が最初だと思います。思い出深い仕事を1つ挙げるとしたら、ターミネーターのDVD発売時に担当したバナー広告ですかね。このときも何と掛け合わせたら面白くなるかなってずっと考えて、「ターミネーター」×「トイレ」で提案をしました

トイレ!? どう掛け合わさるのか想像がつかないです……。
阿部 晶人のイメージ

トイレのドアを模した縦長のバナーで、ドアの部分をクリックすると、内側から「コンコン」ってノックする音が聞こえてきて、もう一回クリックすると、「ドンドドン」ってノックが返ってくるんです。それを続けていると「コンコン、ドンドドン、コンコン、ドンドドン、コンコン、“ダダンダンダダン”」ってターミネーターの音楽が流れ始める。すると、トイレの中からDVDが飛びでてきて、「I'll be back.」という声とともにバタンとドアが閉まっておしまい。

初めて口で説明しました(笑)。

文字で伝わるか心配ですけど、とにかく衝撃的なアイデアですね(笑)。

追い詰められたときこそ“後ろに下がらず、前へ出る”

その後は、31歳で他の代理店に最年少のクリエイティブ・ディレクターとして転職。どういう経緯だったのでしょうか?

電通でデジタル広告をずーっと作っているうちに、世界的な広告賞をいただいたり、審査員をやったりしていたので、国内外問わずいろんなところからたくさんオファーをいただいていました。

それと、当時の電通はデジタルのクリエイティブと、CMやグラフィックなどのクリエイティブが別部門で、「領域をまたいだクリエイティブ」に挑戦できない環境だったのも、転職しようと思った理由の1つです。とはいえ、あの頃は「転職して当たり前」の時代ではなかったし、10年も電通にいた人が他の代理店に移るのもなかなかないことでした。おかげで、周りからは猛反対。

でも僕はそういった慣習よりも、その先どうなるかわからないけど、自分が思う「面白いこと」がやれる環境のほうを大事にしたかったんです。それでOgilvy One Japan(現在はOgilvy Japan)へ転職しました。

これまで阿部さんがやられてきた事や転職のお話をお聞きしていて、「前例がない」「結果が見えない」ことに自ら進んでいるように感じました。先の見えない状況で、それでも前に進むための原動力は何だったのでしょう。

うーん、なんだろうな。1つは、自分がやっていることの「面白さ」を信じていたからですかね。もう1つは、小学1年生からのライフワークでもある剣道から学んだ“教え”でしょうか。

相手がすごく強そうだと、つい後ろに下がりたくなってしまうじゃないですか。でも剣道では、「そういうときこそ前へ出ろ」という教えがあって、下がったときに相手から打たれるのが一番ダメなことだと言われているんです。そのせいで、仕事においても「下がることだけはしない」という覚悟が染みついているのかもしれません。単なる「向こう見ず」とも言えますね(笑)。

世界大会誘致のためなら、仕事を辞める

阿部さんは40歳のときに、「世界剣道選手権のお手伝いをする」という理由で退職されていますね。これまで順風満帆な仕事人生だったように思えるのですが、そこにはどんないきさつがあったのでしょうか?
阿部 晶人のイメージ

大学時代に剣道のホームページを作っていたことから、社業と並行してずっと全日本剣道連盟の委員を務めていたんです。だから、東京都が45年ぶりに世界剣道選手権の開催地に立候補するという話を聞いたときには、絶対に力になりたくて……。最初は仕事の合間をぬって、誘致プレゼンのお手伝いをしていたんです。

とはいえ、本業と両立させるのは大変だったのでは?

夜と土日は剣道のために使っていました。当時はほぼ毎日、仕事で徹夜していたんですが、どうしても日本に大会を誘致したかったので、「本業は○時までに終わらせる!」と気合いで仕事を終わらせていました。

誘致が成功した後にはプロモーションや運営の準備が始まったんですが、「これ以上は、本業と剣道を両立できない」と判断したので、会社を辞めました。その時点では、報酬の有無どころか、自分に仕事があるのかすら確認していなかったのに、です(笑)。

家族は、僕が世界で一番剣道が好きだということを知っているので、反対はしませんでした。いや、「もう止められはしない」と思っていたのかもしれませんね。

世界選手権の開催までは、どのような日々を送られたのでしょう?

これまでの経験を活かして、関係者のIDカードを作ったり、選手たちに配るウェルカムパッケージの内容を決めたりといったことから、ポスターやウェブページの制作まで、色々なことをやりましたね。

大きいところだと、スラムダンクの作者である井上雄彦さんにメインビジュアルを依頼しました。即決してくださったときは、うれしかったですね

16thwkc(第16回 世界剣道選手権大会)のイメージ (C)All Japan Kendo Federation

そのおかげもあってか、日本武道館でやる武道のイベントでは、過去最高の動員数だったらしく、「これまでの世界大会で一番よかった」というお褒めの言葉もいただきました。誘致活動から足掛け3年。最終日の表彰式が終わった後はもう空っぽというか、真っ白というか。それくらい、充実した時間を過ごしましたね。

リスクよりも、「進んだ先が面白そうかどうか」

会社の退職理由にせよ、これまで手掛けてきた企画にせよ、阿部さんの決断や発想は、普通の人の斜め上をいっているように感じます。なぜ、そのような決断ができるんですか?

僕の信念は「迷ったら面白いほうに進め」なんです。リスクどうこうではなく、とにかく「進んだ先が面白そうかどうか」で決めてるんです。面白そうな企画は、詳細を説明しなくてもクライアントがOKを出すこともあるので、まわりからは「それで本当に大丈夫なの?」と心配されますが、不思議とそれでうまくいっています。

阿部 晶人のイメージ

もちろん絶対に無理なことは提案しないです。反対に、絶対に成功する企画も提案しない。少し難しいレベルにして提案することにしているんです。やっぱり、年をとればとるほど成功法則にとらわれてしまうので、そうやって僕は新しい成功体験をどんどん作りたいなと思っています。

最後になりますが、EL BORDE読者の多くを占める「30代」について感じることや伝えたいことはありますか?

30歳を過ぎると「大人にならなきゃいけない」と自らの行動や発想に制限をかけてしまうような方もいると思うんですけど、逆に30代こそ大暴れしてほしいですよね。僕はそれくらいから、どんどん暴れるようになりました(笑)。

もちろん、年を取るにつれて成功法則にとらわれてしまう、という感覚もわからなくはないんです。ただ、法則にのっとって生きていくだけでは面白くないじゃないですか。何かモヤモヤしたものを抱えながら仕事をしている方は、ときには暴れて、自分からどんどん新しい成功体験を生み出してみてください。

阿部 晶人(あべ あきひと)
1974年生まれ、大阪府出身。電通ではコピーライター、プランナーを経て同社初のウェブプランナーに転身。カンヌライオンズ広告賞など数々の広告賞を受賞。Ogilvy Oneなどを経てカヤックにジョイン。現在「うんこミュージアム」のクリエイティブディレクションなどを手掛ける。通勤手段は徒歩(約15分)。「カヤックにきてからすこぶる体調がよくなりました」。
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