2020.04.02 NEW
人を動かす「カッコいい」の条件―多様化した現代で大切にすべき姿勢とは
聞き飽きたような問いかけではあるが、あなたが大切にする価値観を聞かれたら何と答えるだろうか。答えは千差万別であり、さまざまな指標があるが、日頃よく使われる「カッコいい」という言葉も価値観のひとつだ。
そして、「カッコいい」という言葉ほど、誰もが日常的に使う誉め言葉はあまりないだろう。
たとえばビジネスの現場なら、理想的なマネージャーにはメンバーに付いていきたいと思わせる「カッコよさ」があるし、頼もしい若手社員にそのような感情を持つこともあるだろう。あるいは企画や提案を選定するときも、その決め手になるのは、一言でいえば「カッコよさ」であることが往々にしてあるのではないだろうか。私たちは人の印象に限らず、物事を選ぶときの判断基準としてもこの言葉を使っているのだ。
しかし、このように多用される言葉である一方で、「カッコいいとは何か」を明確に定義できる人はほとんどいないのではないだろうか? 今回紹介したいのは、「『カッコいい』について考えることは、即ち、いかに生きるべきかを考えること」と宣言する書籍、『「カッコいい」とは何か』(講談社現代新書)である。
これまで語られてこなかった「カッコいい」という“概念”を紐解く一冊
著者は平野啓一郎氏。この名前にピンときた人もいるだろう。これまで『日蝕』(第129回芥川賞受賞)や、2019年に映画化を果たした『マチネの終わりに』(第2回渡辺淳一文学賞受賞)など多数のヒット作品を輩出し続ける、いまを代表する人気小説家のひとりである。
本書は“カッコよくなるためのハウツー本”ではなく、書名のとおり「カッコいい」とはそもそも何なのか、という“概念”について掘り下げていく一冊。実はこのテーマについて本格的に論じている書籍は、本書が日本史上初かもしれないのだという。
著者が「小説以外では、この十年来、私が最も書きたかった本」だったと明かす本書は、新書ながら477ページと大ボリューム。抽象的な論にとどまらず、音楽史、美術史、趣味論、ファッションの流行論など、さまざまな具体例とともに「カッコいい」とは何かを複合的に読み解いていく。
今回は本書が宣言しているように、「カッコいい」という概念がいかにして私たちの人生に関わっているかに焦点をあててみていこう。
「カッコいい」の条件
本書はまず、「カッコいい」という言葉の起源に迫っていく。
「カッコいい」という言葉が流行語として登場し、爆発的に流行ったのは、戦後のテレビブームと同時期、1960年代のこと。それからというもの、「カッコいい」という言葉が20世紀後半から現在に至るまでの文化現象や、大衆の消費行動に多大なる影響力についてはことさら説明するまでもないだろう。
著者曰く、「カッコいい」と、その語源である「恰好が良い」は少し違った意味を持っている。これは混乱しやすい点なので、まず初めに説明しておきたい。いずれも“理想像と合致しているか”を指す言葉であるが、何を理想像とするかの価値基準に違いがある。
「恰好が良い」は、なにか基準となる手本があったうえで、それと比較して様になっているかどうかを評価する。一方、「カッコいい」の理想像となるのは、もっと多様で相対的なものだ。
たとえば、あなたが友人や同僚と“カッコいい上司”とはどういった人物かを語るとすればどのように説明するかを想像してみてほしい。「熱意がある人」「単純に顔が良い人」「話が上手い人」「持ち物にこだわりがある人」など、話の相手が近しい関係性であっても全く同じ説明になることはほとんどないだろうし、あなた自身の回答も、今と数年後とでは違った定義になるだろう。
ではなぜ、私たちはこの言葉を共通認識としてコミュニケーションの中で難なく使うことができるのか。それは私たちが「カッコいいとは何か」という問い、つまり「カッコいい」の条件を共有しているからではないだろうか。
著者は「カッコいい」の諸条件として、以下を提示する(p.71)。
- 魅力的(自然と心惹かれる)
- 生理的興奮(「しびれる」ような体感)
- 多様性(一つの価値観に縛られない)
- 他者性(自分にはない美点を持っている)
- 非日常性(現実世界から解放してくれる)
- 理想像(比類なく優れている)
- 同化・模倣願望(自分もそうなりたいと自発的に感じさせる)
- 再現可能性(実際に、憧れていた存在の「カッコよさ」を分有できる)
これらのなかでも、著者は「しびれる」ような体感を伴う「生理的興奮」が最も重要な条件であると主張する。
そして、冒頭にあげた著者の「『カッコいい』について考えることは、即ち、いかに生きるべきかを考えること」という主張にも、この「しびれる」ような「カッコよさ」が大きく関係してくる。
「しびれるようなカッコよさ」が人生に意味を与える
どのようにして「カッコよさ」が私たちの生き方に関係してくるのか。それには、私たちがいま生きている現代を取り巻く時代背景を振り返る必要がある。
近代以降のヨーロッパ社会しかり、現代の日本社会は、上から押さえつけられるような絶対的な価値基準がない、個人主義と言われる時代だ。
そのような平野氏が「人倫の空白」というような状況——生きる意味を与えてはくれない世界で、生の実感(実存の手ごたえ)と方向性を見つけていくためには、それぞれが「一人一人の個性に応じた人生の理想像」を追究していかなければならない。
そこで重要になるのが、先の「しびれる」ような強烈な生理的興奮を伴う「カッコよさ」である。「しびれる」「鳥肌が立つ」といった強烈な体感は、本人にとっては絶対に疑い得ない・嘘偽りのない事実であり、その確信こそが不確かな世界に意味を見出す実存の手ごたえになるからだ。
また、すべての人間が、同じ対象に同じだけ「しびれる」わけではないため、「自分はこういうものに、これほど鳥肌が立つのか!」という気付きは、一種の自己発見だとも捉えることができる。
人々が「カッコいい」人やものを求めるのはいわば“自分探し”であり、このようにして「カッコいい」は現代人のアイデンティティに深く根差し、現在まで使われ続けているのだ。
「カッコいい」がアイデンティティと結びついているということがどうもしっくりこないという人は、反対に「カッコ悪い」と言われたときのショックを想像すると理解しやすいかもしれない。
「カッコいい」も「カッコ悪い」も“普通からの逸脱”という点では同じだが、「カッコ悪い」は、普通以下という評価であり、著しく自尊心を傷つける。
著者が昔からファンだというマイルス・デイヴィスを、知り合いに「めっちゃカッコ悪いわ」と言われ、心の内では首を絞めたくなるほどムカつき、いまだに根に持っているという告白は、多少なりとも共感できるエピソードではないだろうか。
自分らしく生きていくことは、自分らしい「カッコよさ」を追究してくこと
今日、当然ながら「カッコいい」という言葉は、担い手の性別を問わず、また、その対象に「倫理」や「優しさ」なども含むような、ますます多様なものとなってきている。
最後に本書から、私たちが日々を生きるうえでのモチベーションとなりうる文を引用したい。
たった一つの「カッコいい」存在に忠実である必要はなく、むしろ、「カッコいい」を巡る自分の自由な変化にこそ、忠実であるべきである。新しい「カッコよさ」の発見は、新しい自分自身の発見であり、また、それに魅了されている他者との新しい出会いでもあるからである。(p.439)
世間の「カッコいい」という価値観が、時が経つにつれ多様化しているように、私たちのアイデンティティとなる価値観も、必ずしも一貫されているべきものではない。
一度は「カッコいい」と言われた経験があったとしても、「カッコいい」と言われ続けることは難しい。カッコいいと思われ続ける人物になろうとするなら、自分が思う「カッコいい」の理想像もアップデートし続けていくべきなのだろう。
また、積極的に「カッコいい」と触発されるものを発見していくことで、これまで接点がなかった人と共通の関心でつながる機会もあるかもしれない。新しい出会いから、プロジェクトが発足したり、異なった業種とのコラボレーションが生まれたりなどといったことは、イノベーションが起きる現場としてよく聞く話。
今の職場や環境に満足していない人にとっては、環境を変えずして、自分自身の可能性を広げるヒントとなりそうだ——少し欲張りすぎたかもしれないがこのように受け取ることもできるだろう。
これまでの自身の人生の価値観について振り返るとき、将来の自分のありたい生き方について考えるときに、ひとつ大きな手掛かりを与えてくれる一冊だ。
■書籍情報
書籍名:「カッコいい」とは何か
著者 :平野 啓一郎(ひらの けいいちろう)
1975年、愛知県蒲郡市生まれ。北九州市出身。小説家。京都大学法学部卒業。1999年、在学中に文芸誌「新潮」に投稿した『日蝕』により第120回芥川賞を受賞。以後、数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている。著書に、小説『葬送』、『滴り落ちる時計たちの波紋』、『決壊』(第59回芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞)、『ドーン』(第19回Bunkamuraドゥマゴ文学賞受賞)、『かたちだけの愛』、『空白を満たしなさい』、『透明な迷宮』、『マチネの終わりに』(第2回渡辺淳一文学賞受賞)、『ある男』(第70回読売文学賞受賞)、エッセイ・対談集に『私とは何か―― 「個人」から「分人」へ』、『「生命力」の行方――変わりゆく世界と分人主義』『考える葦』などがある。
※本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです。