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#書評

渋沢栄一の名著『論語と算盤』――近代日本資本主義の父・渋沢が説く「人生哲学」とは

2021年08月25日

2021年の歴史ドラマの主人公であり、新1万円札の顔に決定した、渋沢栄一。近代日本資本主義の父として知られる彼はたくさんの名著を残しているが、その中でも長く愛されているのが『論語と算盤』だ。

「利潤と道徳を調和させる」という渋沢の経営哲学が詰まった本書は、初版発行から100年以上経った今も、グローバル化や社会貢献などさまざまな価値観が存在する現代社会において、新鮮な示唆を与えてくれる。

大正5(1916)年に刊行されて以来、数多く訳されてきた本書であるが、今回はその一つである『現代語訳 論語と算盤』(筑摩書房)の概要を述べるとともに、変化が激しく先の見えない今だからこそ、おさえておきたい渋沢流の人生哲学を紹介する。

渋沢が説いた「事業をどう進めるか」から「人はどう生きるべきか」まで

著者の渋沢栄一は、幕末から明治・大正・昭和までを生き抜いた実業家である。有力な農家に生まれた渋沢は、幼い頃から論語をはじめ、さまざまな学問を身につけてきた。起業家として銀行・証券取引所・鉄道・ガス・ホテルなど、生涯を通じて500社余りの会社設立に関わった。その多くが現在の日本経済を支える名だたる企業へと発展し、現在では「近代日本資本主義の父」と呼ばれている。

その渋沢が本著『論語と算盤』で一貫して語っているのは、「資本主義の利益主義一辺倒になってはいけない。道徳と経済のバランスをとることが大切だ」ということだ。タイトルにある「論語」とは人間性や人格の磨き方、リーダーとしてのあり方、人との付き合い方など、いわゆる「道徳」の象徴である。一方、「算盤」とは、科学技術を進化させ、経済をまわし、国を豊かにすることを表している。

つまり渋沢は本著の中で、「利潤と道徳を調和させる」という経営哲学を説いているのだ。

経済の成長を追求するあまり、どうしても「算盤」優勢になりがちな現代社会において、「論語」と「算盤」を均衡させることが大事だという渋沢の主張は、資本主義の暴走に強くブレーキを引くものである。事業を進める上での話のみならず、「人はどう生きるべきか」といった根源的な問いかけにも、明確に答えてくれる。つまり本著は、経営哲学だけでなく、人生哲学も語っているのだ。

いち早く“資本主義の弱点”を見据える

この本を読む前におさえておきたいのが、『論語と算盤』が出版されたのが、大正デモクラシーのなかで経済がバブル化し、立身出世や金儲けが大きな注目を集めていた大正5(1916)年のことだった、という事実だ。

そうした時代では、当然ながら道徳よりも経済が優先されており、「事業は慈善活動ではないのだから、多少は道徳に反しても致し方ない」と考えられがちだった。利益を追求するためには、どうしても道徳は軽視されてしまうのだ。

だが渋沢は、「道徳」と「経済」という一見して相反する2つを融合させ、「道徳と経済をバランスよく進めることが大事だ」と説いた。その根拠については、渋沢の次の一文によく表れている。

いかに自分が苦労して築いた富だ、といったところで、その富が自分一人のものだと思うのは、大きな間違いなのだ。要するに、人はただ一人では何もできない存在だ。国家社会の助けがあって、初めて自分でも利益が上げられ、安全に生きていくことができる。(~中略)これを思えば、富を手にすればするほど、社会から助けてもらっていることになる。(p.96)

さらに渋沢は、「本当の経済活動は、社会のためになる道徳に基づかないと、決して長く続くものではない」と断言し、「算盤だけではなく、道徳も身につけよう」と語っている。

渋沢が道徳の象徴として取り上げている『論語』とは、孔子が語った道徳観を弟子たちがまとめたものだ。渋沢は幼い頃から読み慣れた『論語』を、実業を行う上での規範とした。なぜ、彼は『論語』を規範に選んだのか。

渋沢が実業界に身を置くようになったのは、明治6(1873)年のことだ。大蔵省を退官して下野し、豊かな国をつくるために自ら産業を興そうと決心した。役人を辞めて商売人になろうとしたとき、彼はこう考えた。

「これからは、いよいよわずかな利益をあげながら、社会で生きていかなければならない。そこでは志をいかに持つべきなのだろう」。このとき渋沢の頭に浮かんだのが、以前学んだ『論語』だった。『論語』には、自分のあり方を正しく整え、人と交わる際の日常の教えが書かれている。決して難しい学問上の理論ではなく、人の生きる道や道徳観を説いているのだ。

利益主義一辺倒では、真の発展にはつながらない。論語を基盤として、事業の志を立てることが大事である――。つまり渋沢は、利益第一に陥りがちな資本主義経済の課題にいち早く気付き、その解決策として道徳と経済を均衡させ、利殖を図ることの重要性を説いたのである。

江戸時代に学ぶ“教育”のあり方

では、道徳を持つためにはどうすればいいか。渋沢は、「現代の青年が、いまもっとも切実に必要としているのは、人格を磨くことだ」と述べている。そして、人格を磨くことを「修養」という言葉で表しており、その際に気をつけなければならないのは「頭でっかちになってしまうことだ」と説いている。

学問だけ身につけても社会に打って出ることはできず、反対に、現実だけ知っていても十分とはいえない。「両者が調和して一つになるときこそ、国でいえば文明が開けて発展できるし、人でいえば完全な人格を備えた者となるのだ」と渋沢は述べている。

彼によれば、「人格を磨く」際に役立つのが、武士道である。武士道は古来、もっぱら武家社会だけで行われ、経済活動に従事する商工業者の間では重んじられてこなかった。だが渋沢は、武士道の神髄は、正義(皆が認めた正しさ)、廉直(心がきれいでまっすぐなこと)、義侠(弱きを助ける心意気)、敢為(困難に負けない意思)、礼譲(礼儀と譲り合い)とみなし、それらは商業活動にも欠かせないものと考えた。

本来、武士道を誇りとしてきたはずの日本で、なぜ商工業者がそうした道徳を置き去りにしてしまったのか。その原因について、渋沢は「教育の弊害ではないか」と考えている。江戸時代、統治される側にいた農業や工業、商売に従事する生産者たちは、政策に従わされるのみであり、道徳教育とは無関係の場所に置かれ続けた。そのため、自分でも正義や道徳に縛られる必要はないと思うようになってしまったのではないか、と渋沢は推測している。

教育について、渋沢はこんなふうに嘆いている。

今の青年は、ただ学問のための学問をしている。初めから「これだ」という目的がなく、何となく学問をした結果、実際に社会に出てから、「自分は何のために学問してきたのだろう」というような疑問に襲われる青年が少なくない。(p.193~194)

これはそのまま、現代社会の教育にも当てはまるだろう。

学問を修める方法を間違えると、人生における身の振り方を誤ってしまうだけでなく、国家の活力衰退を招くもとになる。むやみに詰め込む知識教育ではなく、各々得意とする方向へ向かいながら、実践的な知識と技術を身につける。渋沢は当時と比較し、江戸時代の寺子屋の教育を「不完全ながらもうまくいっていた」と述べている。これは、学力偏重あるいは点数主義と呼ばれる現代社会の教育問題を考える際、一考に値する指摘だといえよう。

実践的な教育のもとで自分を磨き、豊かな国家へつながるビジネスを進めていく。これが本来あるべき事業の姿であり、このように「時代が変わっても変化しない人間と人間社会の本質」が描かれているからこそ、この本は長く読み継がれているのだ。

現在の日本ではグローバル化の影響から、働き方や経営に対する考え方が非常に多様化している。さらに新型コロナウイルス感染症の拡大も加わり、人生におけるプライオリティや労働に対する意識なども変化しつつある。さまざまな価値観が存在し、指針にすべきお手本のない現代の日本においても、日本が急成長を遂げた大正期、まさに時代の寵児であった渋沢栄一から学べることは非常に多い。

この書籍では、利潤と道徳を皮切りに渋沢の人生哲学が1~10の章で語られ、「何のために働くのか?」「人生100年時代、どう過ごすべきか?」などを考えるきっかけになるかもしれない。渋沢の人生論を、先行き不透明な時代の“生き方”の参考にしてほしい。

【作品インフォメーション】

渋沢 栄一(著) 守屋 淳(訳)
『現代語訳 論語と算盤』

2010年、筑摩書房より発行。