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#書評

国づくりも天下泰平もカネ次第 『家康の経営戦略』から学ぶべきこと

2023年01月25日

江戸幕府は他の武家政権に比べて圧倒的な財政基盤をもっていた。当時の政権の財力の多くは、所領で収穫できる米の生産量、石高で測られる。例えば鎌倉幕府は多くて300万石、室町幕府は200万石ほどと考えられている。これに対して公称で江戸幕府は、天領(直轄地)だけで400万石、徳川家勢力全体で800万石。他の武家政権の2倍超から4倍ほどだ。いかに江戸幕府の財政が潤沢であったかがわかる。

さらに、家康は各地の主要な鉱山や港を直轄地とし、加えて莫大な利益をもたらす南蛮貿易を独占したため、これらも石高に表れない財力となった。

  1. 江戸幕府の財政力というのは、ほかの武家政権を圧倒しているのである。
  2. この圧倒的な財政力は、軍事力にも反映される。
  3. 江戸幕府に対抗できるほどの軍事力を持つ勢力は幕末まで現れず、そのため戦乱や紛争もほとんど起きなかったのである。

(大村大次郎『家康の経営戦略』<秀和システム>P.5より引用)

著者の大村大次郎(おおむら おおじろう)氏は元・国税調査官で、家康の天下取りの経緯や優れたシステムづくりを、お金の面から大胆に読み解く。歴史ファンならずとも「なるほど!」と納得して読ませる内容だ。

なぜ、家康はこれほど莫大な財力を得ることができたのか。そして倹約家として知られる家康はどのように出費を抑えたのか。さらに、家康は存命中に確実に後継者を残し、将来を見すえて地位・財産を継承するシステムをつくりあげていた。それはどのようなものだったのか。『家康の経営戦略 国づくりも天下泰平もカネ次第』(秀和システム)から家康の思考法と将来へ備える手腕を学ぶ。

戦いに経済効率を求める。じっと耐え忍ぶがチャンスは逃さない

家康は1542年、三河の小大名である松平家に生まれ、幼少期を人質として過ごした忍耐の人として知られている。しかし、じっと待って耐え忍ぶばかりではなく、老年以降に訪れたチャンスを逃すことなく果敢に行動し、ものにした。

その行動原理として信長や秀吉と違うのは、「敵が強いときには戦わない」ということだった。なぜなら、敵が強いときに破ろうとすれば出費がかさむ。しかし、敵が弱っているときに叩けば費用をそれほどかけずに領土を広げることができるからだ。強い敵が何かをきっかけに倒れかけたときに、一気呵成に責め立てる。つまり、戦いにも経済効率を求めたのだ。

  1. 信長や秀吉は、自分の前に立ちふさがる強敵を1つずつ打ち破ってきた。そうすることで、領土を拡張し勢力を拡大していった。トーナメント戦を勝ち上がるようにして天下に近づいていったのである。
    が、この方法は経済効率的にはそれほどいいものではない。
  2. 敵が強いときにこれを破ろうとすると、大きな出費を強いられるからだ。

(大村大次郎『家康の経営戦略』<秀和システム>P.28~29より引用)

何かを成し遂げようと思っても、「いまはそのときではない」と判断できるかどうか。私たちも、「将来もっと効率的に行うことが可能なときが来るなら、そのときをじっくり待つ」家康のような姿勢を参考にできるだろう。

有能な人材を格安で登用。「よいものを安く」手に入れて出費を抑える

莫大な財力をもつことになった家康は質素・倹約の人としても知られるが、では具体的にどう出費を抑えていたのだろうか。その方法の1つが先にみた「戦いにも経済効率を求める」ことだが、それだけではない。有能な人材の「安価な」登用によっても出費を抑えた。

戦国時代、他家に属する有能な家臣を引き抜いて重用するのは、決して珍しいことではなかった。家康もご多分にもれなかったが、他の人とはひと味違うやり方をした。

家康は、他家の家臣が好調に活躍しているときには引き抜かず、主君の大名家が滅んだり没落したりしたとき大量に登用したのである。

これなら、ヘッドハンティング費用や本人に支払う報酬を低く抑えることができる。例えば、桶狭間の戦いで今川家の勢いが衰えたときに同家の家臣を積極的に登用。武田家、織田家など没落した大名家の家臣も同様に登用した。

  1. 光秀や官兵衛は、大きな領土を与えられるなど非常な「高給取り」だったのに対し、家康の引き抜き家臣たち、元正、長綱、長安などは、その活躍の割には非常に報酬が少なかった。
  2. 家康の経済思想は「高いときは買わない」「安いときに買う」という非常に単純なものだった。

(大村大次郎『家康の経営戦略』<秀和システム>P.31より引用)

高いときには買わない、安いときに買う。「言うは易く行うは難し」だが、現代のすべての事象においても通じる売買の妙手であることは間違いないだろう。

着々と天下分け目の関ヶ原を準備。「出すべきとき」には出し、機をうかがう

家康が最も大きく財産を殖やしたのは、天下分け目ともなった関ヶ原の戦いの勝利によってだ。家康57歳、1600年のことだ。しかし著者は、家康はその前から着々と手を打っていた、とする。

まず1つめが、豊臣秀吉の重臣の一人、細川忠興(ただおき)の懐柔だ。

秀吉は長らく実子に恵まれず、甥の秀次を後継者に指名し関白職を譲っていた。しかし、嫡男となる秀頼が生まれると秀次に切腹を命じた上、秀次ゆかりの大名や家臣らへも追及を行う。古くから秀吉の忠臣だった細川忠興も例外ではなく、秀次に黄金100枚を借りたという理由で責を問われた。切腹は免れたものの、当時の大金にあたる黄金100枚の返済を求められ、困った忠興は、家康に半分の黄金50枚を借りたいと申し出た。

これに対し、家康は気前よく黄金100枚を貸し与えた。恩義を感じた忠興が家康の内意を汲んで、関ヶ原の前年である1599年、「石田三成襲撃事件」を首謀したのだと著者は説く。この事件を機に、三成が豊臣家奉行の職を辞して失脚することになり、関ヶ原へ挙兵する直接的な原因となった。家康が天下をとるに至った、関ヶ原に通ずる、とても重要な事件だ。

  1. しかし、家康は黙って黄金100枚を貸してくれたのである。
  2. もちろん、忠興が感激しないわけはない。おそらく、命の恩人だと思ったはずだ。
  3. 家康は、天下を取った後も足袋を履かず、そのせいであかぎれになるなど「倹約家」「ケチ」として名高い。が、このように、出すべきときには出しているのだ。

(大村大次郎『家康の経営戦略』<秀和システム>P.83より引用)

然るべきタイミングには、惜しまずに出す。
「ここが転機である」と見極めるためには、難しい判断が伴うが、私たちもしっかり見習いたいところだ。

そして1600年、はれて家康は関ヶ原の戦いで大勝利をあげる。
三成方の西軍が総崩れになった大きな契機が、小早川秀秋の家康方への寝返りだったと言われているが、家康はこの戦の前に秀秋にも恩を売っていた。

秀秋は秀吉の義理の甥で、秀吉の期待が厚く、筑前(福岡県西部)・筑後(福岡県南部)という、海外貿易の一大拠点でもある博多港を擁する一大商業地帯を治めていた。しかし、秀吉は、跡継ぎの秀頼が生まれると秀秋の所領を奪い、越前北ノ庄(福井県)に転封(所領を移転)させた。
しかし関ヶ原の直前に、家康は豊臣直轄地となっていた筑前・筑後を秀秋に取り戻させていたのだと著者は見る。

  1. 豊臣家の直轄領を減らし、秀頼が引き継ぐ資産を少なくすることは、家康にとって、天下獲り戦略が有利になるということだ。
  2. しかも秀秋に対し、恩を売ることができる。
  3. 秀秋は、最後に冷たくされた秀吉に対してよりも、旧領地を取り戻してくれた家康への恩義のほうを重く感じるだろう。

(大村大次郎『家康の経営戦略』<秀和システム>P.91より引用)

そして関ヶ原の勝利によって家康は敗れた西軍の所領630万石を得、うち多くを家康自身が手に入れる。譜代大名などを合わせると約600万石、さらに全国の主要な金山・銀山、港も手中に収めた。

家康は、まさに老年期まで待って、権力とともに大きな富を手に入れた。それはじっくりと準備して機をうかがい、忍耐強く待つことによる。

未来に備えて好機を待つ。
私たちも家康のようにとはいわないまでも、完遂すべきことのために入念に準備して、きたるときをじっくり待ちたいものだ。

存命中に後継者を確実に残すシステムをつくりあげる

しかし、こうして天下人となった家康が征夷大将軍の職に就いていたのは、わずか2年。すぐに三男の秀忠に将軍職を譲った。家康は、有力大名の突然の死が家中の乱れに直結することを痛いほど知っていたのである。信長と嫡男の信忠がほぼ同時に明智光秀に討たれた後の織田家や秀吉なき後の豊臣家を身近に見てきたからだ。

家康は、権威が大きいうちに秀忠に権力を少しずつ譲っていき、スムーズな政権交代を準備した。それだけではなく、直系男子が途絶えることを危惧し、将軍となる後継ぎを確実に残すシステムをつくりあげた。家康の子を始祖とする尾張徳川(愛知県)、紀伊徳川(和歌山県)、水戸徳川(茨城県)の御三家は、この家康の意図から後に完成されたものだ。確実な後継システムについて、存命中からしっかり配慮していたのである。

このように家康は忍耐だけではなく、チャンスを引き寄せてものにしつつ、かつ出費を抑えながら財力を蓄えていった。そしてその多くは晩年になって得たものだ。私たちが生きる現代であっても、じっくり布石を打ちながらチャンスを待ち、売買の際は高いときには買わず安いときに買い、早期から着々と盤石な体制を整え後継者へと確実に財産を引き継ぐことの重要性は変わりない。家康の思考と行動は、いまでも参考にできるといえるのではないだろうか。

なお本書には、他にも秀吉の妨害を受けながら当時まだ僻地であった江戸を開墾し財政と兵力の基盤とした話や、260年余に及ぶ江戸幕府の治政を可能にした「家康イズム」を継承する家康以降の話なども書かれている。元・国税調査官ならではのおカネにまつわる見識とシステムづくりに関する慧眼にあふれる。大器晩成型の家康の生き様を見倣ってみてはいかがだろうか。

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【作品インフォメーション】

大村 大次郎(著)
『国づくりも天下泰平もカネ次第 家康の経営戦略』

2020年、株式会社秀和システムより発行。