永井荷風の日記に残された老舗すき焼店。文明開化の味を堪能する

2019年11月13日

明治から大正、昭和を生きた文学者・永井荷風が、40年以上に渡って変わりゆく東京を散策し、その風景や人々の様子、時事、風俗を綴った日記、『断腸亭日乗』。同作は、近代日本を知るための貴重な資料として知られるが、それとは別の意味合いでつい興味を惹かれてしまう側面も持ち合わせている。本書の中に登場する当時の“グルメ事情”だ。

今回は、荷風の足跡を簡単にたどりながら、『断腸亭日乗』に登場する明治13年(1880年)創業の老舗すき焼店「今朝(いまあさ)」を訪れ、かの文豪も食した伝統の味を堪能してみた。

文豪・永井荷風の食生活が分かる日記をのぞく

時は明治12年(1879年)。永井荷風は東京市小石川区(現在の東京都文京区)で、内務省の官吏である父と、漢学者の長女である母のもとに生まれた。19歳の頃(1898年)に処女作を発表し、24歳(1903年)で、父の意向によりアメリカ、フランスへの外遊を経験。その経験や感性をもとに綴った作品は、当時趨勢を占めていた自然主義とは趣きが異なる耽美な作風から、大いに世間の注目を集めることとなった。

そんな荷風が大正6年(1917年)の9月16日から綴り始めた日記が『断腸亭日乗』だ。

死の前日まで42年間に渡って綴られたこの日記には、浅草や銀座、向島など荷風が散策した街の風景やそこで生きる人々の姿が、簡潔ながらも美しく詩情豊かな文体で克明に描き出されている。永井荷風という類稀なる作家の目と感性を通して、時代とともに変わり続ける東京の姿を追体験することができるのだ。

もちろん、そこには“食”についての描写も登場する。ある正月の朝食がクロワッサンとショコラであったりと、海外滞在経験を持つ荷風ならではのモダンさ、そして簡素な生活ぶりを伺い知ることができ、何とも興味深い。

実は日記を開始したときの荷風は独り身。食事の大半が外食であり、作中には多くの飲食店の名前も挙がっている。残念ながら閉店してしまった店も少なくないが、いくつかの店には今でも訪れることができる。そのひとつが今回紹介する「今朝」だ。

文明開化を象徴した料理を、文豪も訪れた名店で味わう

明治5年(1872年)に肉食奨励のため明治天皇が自ら牛肉を試食して以来、肉食は大きなブームとなった。牛肉を食べること、それは「新しい時代」(すなわち文明開化)を味わうことでもあった。そうしたブームの中、「今朝」は明治13年(1880年)に創業した。店を構えたのは芝区芝口(現在の東新橋)。そこは明治5年に日本ではじめて開業した鉄道の発着駅があった場所であり、「新しい時代」の中心地となった東京の玄関口として重要な役割を担った場所でもある。

店内に飾られた、明治37年(1904年)当時の店舗写真

「新しい時代」に、その要所で「新しい味」を供した「今朝」。新しい元号を迎えた今、かつての「新しい時代」の始まりに思いを馳せながら、時を超え受け継がれ「伝統」となったその味を堪能してみる――。これこそが、“大人の粋”といえるのではないか。

現在、「今朝」があるのは創業の地に建てられた9階建てのビルの2階。戦後一時は新橋駅前ビルで営業を行っていたが、創業100周年を記念としてこの地に戻ってきたのだという。出迎えてくれた5代目店主の藤森朗(ふじもりあきら)さんの案内で掘り炬燵式の個室の座敷に入ると、そこは外の喧噪(けんそう)とは隔絶された和の空間。いるだけで心が安らぐ。

ディナータイムは基本的に個室での利用となる

『断腸亭日乗』に「今朝」の名前が出てくるのは昭和15年から16年(1940~41年)にかけて(たとえば、昭和15年4月20日の日記には、全集の出版について検討した後に今朝で食事をとり、その後銀座京橋を散策したという記録が残っている)。しかし五代目店主である朗さんによると、朗さんの父・紫朗(しろう)さんは戦後になっても荷風が店に訪れている姿を何度か見かけたことがあるとか。

また、行きつけの店には「決まった席」があったという逸話が残る荷風だが、朗さんは「うちの店でも同じところにしか座らなかったと聞いています」と教えてくれた。独自の美意識とある種の「偏屈さ」を持っていた荷風。その“らしさ”は、ここでも発揮されていたようだ。

写真は松阪牛のロース肉ともも肉からなる「すき焼(竹)」。薄く切り揃えられた霜降り肉を前にすれば、否が応でも心が踊るはずだ。

「すき焼(竹)」(二人前)

「ホルモン剤を利用して短い育成期間で無理やり大きくさせた牛の肉は脂の質も悪く、食べたときに胸やけを起こさせたりもします。しかし、うちの店で使用している松阪牛はそんなことはありません。約2年半じっくりと育てられ、解体した後に一定期間熟成されているため、良質な脂である不飽和脂肪酸を多く含んでいるのです」と、朗さんは店のこだわりを語る。

とはいえ、「今朝」のすき焼の美味しさは素材のみによって実現されているのではない。重要な役割を担っているのは、「匠の技」と「秘伝の味」だ。

卓越した包丁さばきには、感動すら覚える

現在では多くのすき焼店が機械を用いて肉をスライスしているが、「今朝」では熟練の板前が包丁で丁寧に一枚一枚の肉を切っている。手仕事で約1mmの厚さで肉を切り揃えていくその技術は、まさに「匠の技」と呼ぶにふさわしい。では、なぜそのことが“美味しさ”につながるのか? それは次の2点の理由による。まず、機械でスライスさせるためには肉を凍らせなくてはならないが、包丁で切る場合はその必要がないため肉の質が落ちない。加えて、人の手により切られた肉の表面が僅かにギザギザするため、割り下が染み込みやすくなる。ゆえに「うまい」のだ。

荷風に想いを馳せながら、ぐつぐつ煮られる肉を眺める時間は、まさに至福のひとときだ

「秘伝の味」のほうは、いうまでもなく割り下のこと。創業当時、多くの店が肉の臭みを消すために味噌仕立ての割り下を使う中、「今朝」では風味豊かな醤油仕立ての割り下にこだわった。その伝統の味が現在にいたるまで、ずっと受け継がれているのだ。ただし、それは「今朝」が東京にはじめてできた屠牛場(とぎゅうじょう)から質の良い肉を直接仕入れていたからこそできたこと。戦後に入ってからは松阪牛を供するようになったが、素材に対するこだわりもまた、最初から一貫していたわけだ。

この店では、仲居さんが最初から最後まで調理を行ってくれるため、“食べること”に集中できるのも嬉しい。玉子をといた皿に肉をくぐらせ、一気にほおばると…。割り下がしみ込んだ芳醇な肉の旨味と玉子の甘みが絡み合い、極上の味わいが口中に広がる。

この上なくまろやかな食べ心地と濃厚な味わいのコンビネーションは、まさに格別。「『肉はあまり得意ではない』とおっしゃるご年配の方でも、うちの店に来るとけっこうな量のお肉を食べられてしまうのですよ」とは朗さん。その言葉にも納得だ。

取り分けを行う仲居さんの仕草にも、一挙一動から「今朝」の歴史の長さを感じさせられる

付け加えておくと、「今朝」の素材へのこだわりは肉以外にも通底している。高品質の千住葱(せんじゅねぎ)や原木椎茸(げんぼくしいたけ)、新橋の老舗豆腐店「小松屋商店」の豆腐など、ほかの具材にも選りすぐりの食材を使用。それらの多彩かつ豊かな味わいは、すき焼という料理は決してお肉だけでは成立しえないということを雄弁に語りかけてくる。

「伝統」を継承しながら「変化」に挑む気持ちを持つこと

「今朝」が構えるこの新橋は、現在進行形で再開発が進んでいるエリア。かつて「今朝」が戦後に一時営業していた「新橋駅前ビル」も、2022年までに解体着工が予定されている。

変わりゆく街に思いを馳せる中、店を出る間際に朗さんが話してくれた「守るべきものはきちんと守りながら、変えるところは変えていきたい」という言葉が頭をよぎる。ソムリエの資格も所有する朗さんは、すき焼とともにワインを楽しむという新しい価値観の提案にも力を入れている。確固たる伝統を守りながらも、変化していくことにも意欲的に取り組んでいるのだ。

ドイツで働いていた経歴を持つ、5代目店主の藤森朗さん

変わりゆく東京を見つめ続けた荷風も、失われていく風景や古き良き文化への愛着を持ちつつも、“変化すること”に対して決して否定的ではなかった。関東大震災とその後の復興は、荷風が親しんだ銀座の風景を一変させてしまったが、それを機に隆盛した「カフェー」などの新しい文化・風俗にもしっかりと馴染み、観察・体験し、そこで培った経験を作品へと昇華していった。

伝統を愛する視点を持ちながらも、それと同時に変化を恐れず向かい合う姿勢でいること。それこそが「新しい時代」を豊かに力強く生きていくための秘訣なのではないか――。「新しさ」を「伝統」へと磨き上げ、さらなる取り組みにも挑む「今朝」のすき焼の食体験は、そんな気づきをもたらしてくれるはずだ。

【インフォメーション】

今朝(いまあさ)

1880年に創業した老舗すき焼店。すき焼は肉の部位違いで松・竹・梅の3つのメニューを用意。先付や新涼造り、ご飯、デザートなどがセットになったすき焼定食のほか、しゃぶしゃぶも提供する。ランチにはお昼のすき焼定食やすき焼丼など、お値打ちなメニューも。席数は90席。


所在地/東京都港区東新橋1-1-21 今朝ビル2階
TEL/03-3572-5286
営業時間/ランチ 11:30 ~ 14:30(L.O.14:00)、ディナー 17:30 ~ 21:30(L.O.21:00)
定休日/土曜日・日曜日・祝日(12月の土曜日は営業)
目安金額/ランチ:¥1,100~、ディナー:¥7,260~
アクセス/JR 新橋駅 銀座口から徒歩5分、銀座線 新橋駅 2番出口から徒歩2分