立川談志と立川流の波瀾万丈を見守ってきた味―絶妙なタレが鰻の旨さを引き立てる

2021年09月08日

古典落語の名手にして現代の落語を追求する理論家でもあり、落語界の風雲児と謳われた落語立川流家元 立川談志(1936~2011年)。参議院議員を務めたり、毒舌や突飛な言動で鳴らしたりと、落語家の枠に収まりきらない、まさに型破りな活躍ぶりで知られる人物だ。

そんな談志がこよなく愛し、談志が80年代に創設した「落語立川流」の弟子たちにとっても忘れられない味が、上野・不忍池のほとりにある。今回は、立川談志が贔屓にしていた鰻割烹「伊豆榮」の鰻を紹介する。

噺家も文豪も、不忍池のほとりで皆を虜にした「伊豆榮の鰻」

立川談志(本名:松岡克由)は1936(昭和11)年、東京市小石川区、現在の東京都文京区西部に生まれた。16歳で五代目柳家小さんに入門し、27歳で立川談志を襲名、真打に昇進する。その後も人気テレビ番組「笑点」を企画立案するなど活躍したが、真打制度などをめぐり落語協会を脱退。「落語立川流」を創設し、常設の寄席に出演できない中、家元として人気の落語家を多く送り出した。

上野・不忍池のほとりにある「伊豆榮 本店」。その昔は木造の二階家だったが、現在は7階建てのビルに和洋個室や宴会のできるフロアなどを備えている

古典落語に革命をもたらした天才でありながら、破天荒な言動で知られた談志。多くの弟子が回顧録ともいえる作品を上梓したり、取材などで談志の逸話を披露したりしている。特に食へのこだわりは強かったと見え、行きつけの店や、自らキッチンに立って振る舞った料理などのエピソードは数多い。そんな談志の没後、弟子の1人である立川志らくが繰り広げた“架空対談”で登場するのが、上野・不忍池の名店「伊豆榮」だ。

談志「よっ、伊豆栄、懐かしいね」
志らく「師匠が弟子の二ツ目昇進試験、大切な打ち合わせ、雑誌の取材があると、だいたいこの上野にある鰻屋、伊豆栄をお使いになっていました。師匠が一番好きな鰻屋ということで、何を注文しましょうか?」
(立川志らく著『談志・志らくの架空対談 談志降臨!?』<講談社>より引用)

伊豆榮は江戸中期から9代続く鰻割烹。武家であった土肥家が柄巻師など刀に関わる商いをするようになり、仕事柄すぐれた刃物を携えていたことから、やがて不忍池の鰻を捌く割烹を始めたのだという。

9代目女将 土肥好美さん。気さくな話しぶりからも「気取らないのが魅力」という店の雰囲気が伝わってくる

以来、店の人気は文字通り鰻のぼり。明治の頃には上野の森に点在する博物館や美術館を鑑賞し、伊豆榮へ立ち寄って鰻を味わい、本郷へ抜けるのが粋な散策コースともてはやされた。往時は森鴎外、谷崎潤一郎などの名だたる文豪も伊豆榮へ通ったのだとか。
9代目女将 土肥好美さんに話を伺った。

300年受け継がれる「焼き」の技術。レシピなどない、長年の経験と勘によってのみ培われる職人技である

「伊豆榮の鰻は、切腹を嫌ったといわれる関東流の『背開き』です。これを白焼きにし、蒸して火力の強い備長炭で焼き上げていきます。江戸時代は不忍池の鰻でしたが、現在は愛知県の名水でのびのびと育ったブランド鰻『三河鰻咲』(みかわまんさく)をお召し上がりいただいています」

自慢のタレは砂糖を使わず、みりんのほどよい甘さで鰻本来の味を引き出す。白焼きでも塩や薬味をつけずに食べたいほど旨い鰻だからこそ、この絶妙なタレがありがたい。

「このタレで焼いた照りは、一度重箱の蓋を開けてしまうと二度と戻らないのです。そこで、お重に正面の印をつけるなどして、蓋を閉めたら、お客様の前へ出すまで絶対開けないようにしています」。蓋を開ける瞬間のよろこびをこれほど大切にしてくれるとは、細やかな気づかいに頭が下がる。

少年時代の憧れが詰まった鰻重

さて、誰もが知る著名人にも、地元の人々にも愛されてきた伊豆榮。ただ、談志が率いた立川流一門にとって、ここは緊張漂う二ツ目昇進試験、つまり前座修業を終え、真打の一つ手前の身分へ昇進できるかどうかが試される舞台でもあった。先に登場した志らくの兄弟子、立川談春はドラマにもなった自著『赤めだか』で、この様子をレポートしている。

場所は上野。鰻の老舗伊豆栄の別館梅川亭と決まっている
(立川談春著『赤めだか』<扶桑社文庫>より引用)

上野公園の敷地内に構えられた梅川亭は、上野の森に囲まれた閑静なたたずまいの館。舞台付きの大広間を擁し、そこが昇進試験の場となっていた。立川流の二ツ目昇進試験については、『赤めだか』のみならず方々で語られているが、いずれも印象的なのはその厳しさだ。

古典落語の持ち根多を五十席、前座の必修科目である寄席で使う鳴り物を一通り打てること、歌舞音曲を理解していること、講談の修羅場を読めるための基本的な技術を積み理解すること、であった。それらの全てを談志(ルビ:イエモト)が聴いて判断する、というものである。
(立川談春著『赤めだか』<扶桑社文庫>より引用)

梅川亭の大広間の舞台は、立川流前座達の嘆きの丘と呼ばれている。それほどまでに談志(ルビ:イエモト)は前座たちにNOと云い続けてきた。
(立川談春著『赤めだか』<扶桑社文庫>より引用)

ちなみに、談春の兄弟子である立川談四楼著『シャレのち曇り』(PHP研究所)で書かれている、談志が弟子たちに業を煮やし「一門の解散もありうる」と一喝した場というのがまた、伊豆榮での宴席であった。

ここで、冒頭に紹介した志らくの“架空対談”の続きを見てみよう。

談志「殿重で決まり。あとは何もいらない。いやぁ、鰻喰いたかったんだ。志らく、ここには思い入れがあってね。ガキの時分、ここの鰻を手銭で喰える芸人になりたいって思ったんだなァ」
(立川志らく著『談志・志らくの架空対談 談志降臨!?』<講談社>より引用)

「殿重」は、いわゆる鰻の二段重。かくして少年は落語立川流家元・立川談志となり、あのころ憧れた伊豆榮の鰻を自前で(時には仕事相手や弟子のおごりで)いつでも食べられるようになった――“架空対談”だけに、談志本人の発言ではないのだが、こうした会話を楽しみながら、弟子たちと賑やかに過ごしていたであろう様子が伝わってくる。生前の様子を知る女将も「いつも殿重を召し上がっていました」と、目を細めていた。

ひととき、上野の森と老舗の味をひとり静かに愉しむ

さて、ここで場所を伊豆榮本店へ移そう。階上の部屋からは眼下に不忍池と上野の森が広がり、街中とは思えない静謐な空気が漂っている。こだわり抜いた料理はもちろんのこと、この空間も昔から人々を惹きつけてやまない所以と見える。

まずそのままの白焼きをひと口、たちまち鰻そのものの旨味に唸らされる。もちろん、岩塩もわさび醤油も相性抜群

「鰻といえばハレの日のごちそう」という人は多いだろう。もちろんここ伊豆榮にも、家族や友人など、気の置けない相手と特別な時間を過ごすために訪れる客は多い。しかし、女将によると、特に最近は、ひとり静かに老舗の味と向き合う客も少なくないという。

散策に興じる、絵を描く、詩を詠む、読書を楽しむ……上野の森には、あえてひとりで訪れたい理由がいくつもある。それと同じように、丹精された伊豆榮の料理とこの空間を、ひとりじっくりと味わいたいということなのだろう。時々お忍びで訪れる著名人の中にも、料理だけでなく、ここでひとり静かに過ごす時間を大切にしている人がいるのだとか。

「自由に食べるよろこび」を噛みしめに訪れたい

これほどにお店が愛される秘訣を問われると、女将は「気取らないことですかね。うちは皆お客様が大好き、というか人が好きなんでしょうね」と笑う。

う巻きやうざくなどの一品料理もまた格別。往年の名士たちも、きっとこの味をつまみに一献傾けたはず

鰻は美味しくて当たり前。日本料理にも力を入れ、「鰻の苦手な方も一緒に楽しめる店」を心がけているという。他にも、客の「食べたい」という声を聞いて、限定メニューからグランドメニューへ取り入れた品があるなど、気取らない人懐っこさの内側から「お客様を喜ばせたい」という真剣な様子が伝わってくる。

コロナ禍では長期の全店休業にも追い込まれた。「こんなにお休みしたのは戦時下以来のこと。それ以前にだってなかったはずですよ」と女将。店舗休業中は、職人の技が活きた弁当を販売し、外出自粛でふさぐ客の気持ちを支えてきた。

やむを得ずとはいえ、あまりに長く続いた「黙食」「個食」を強いられる日々。そんな日々もそう遠くないうちに終わりが来るとするならば、大切な人と再会を祝してごちそうを楽しむ時にも、ひとりじっくり名店の技を味わう時にも、ここ伊豆榮ほど似合いの店はないだろう。

【インフォメーション】

伊豆榮 本店

上野・池之端で約300年続く老舗の鰻割烹。創業地に残る本店と、同じく不忍通沿いの不忍亭、上野公園内の梅川亭、永田町店の四店舗を構える。上野の森の美術館・博物館を経て同店へ……という、明治時代以来の“粋な散策”を楽しむ客は今も多いという。


所在地/東京都台東区上野2-12-22
TEL/03-3831-0954
営業時間/月~金 11:00~15:00(L.O.14:30)、17:00~22:00(L.O.21:30)、土・日・祝 11:00~22:00(L.O.21:30)
※新型コロナウイルス感染症拡大により、営業時間・定休日が記載と異なる場合がございます。
定休日/年末年始
予算/うな重 松 3,300円、竹 4,400円、梅 5,500円(いずれもお吸い物、香の物付)
アクセス/JR上野駅 しのばず口 徒歩5分、JR御徒町駅 北口 徒歩5分、地下鉄銀座線上野広小路駅 浅草方面出口 徒歩3分、京成線上野駅 徒歩3分、都営大江戸線上野御徒町駅 徒歩3分、地下鉄千代田線湯島駅 徒歩5分