川端康成、大佛次郎など鎌倉文士が集った二楽荘の「花シュウマイ」と「えびの汁そば」

2022年04月13日

明治時代以降、東京から行き来しやすい別荘地として注目されるようになった鎌倉。その後昭和にかけて、夏目漱石、芥川龍之介、大佛次郎(おさらぎ じろう)、川端康成など、多くの文学者が滞在・移住するようになり、「鎌倉文士」の呼び名が生まれるまでになった。

その鎌倉文士が度々集っては杯を交わし、時には激しく文学論をたたかわせたともいわれる店が鎌倉の中心街にある。今回は、鎌倉の中国料理店では最も古いといわれる老舗「二楽荘」を紹介する。

戦前から鎌倉文士が度々集った「いつもの店」

鎌倉文士といってもほんの数年鎌倉に住んだ人から、半生をほぼ鎌倉で過ごした人までさまざまだ。『伊豆の踊子』『雪国』などで知られ、日本人初のノーベル文学賞を受賞した作家・川端康成は、1935(昭和10)年から1972(昭和47)年の間、72歳で没するまで、35年以上にわたり鎌倉に住んだ。

また『鞍馬天狗』『赤穂浪士』などの時代小説で知られる作家・大佛次郎も、1921(大正10)年から1973(昭和48)年の間、75歳で没するまで、実に50年以上鎌倉に住み続けた。

彼らは盛んに顔を合わせていたと見られ、例えば『大佛次郎 敗戦日記』に収録された1944(昭和19)年 12月12日の大佛の日記にはこう記されている。

夜二楽荘に当地在住の小説家のみ「無事な顔」を会せると云う会、里見久米小島川端島木中山義秀夫妻林永井集る。
(大佛次郎『大佛次郎 敗戦日記』<草思社>より引用)

日記だけに簡素に書かれてはいるが、察するに、里見弴、久米正雄、小島政二郎、川端康成、島木健作、中山義秀とその妻こと真杉静枝、林房雄、永井龍男……特に昭和初期の文壇をにぎわせ、のちに貸本屋を経て設立された当地の出版社とも所縁の深い錚々たる面々だ。

そして集いの場となったのが、今回紹介する「中國料理 二楽荘」だ。

大佛の日記のうち、1944(昭和19)年9月~1945(昭和20)年10月の期間で2冊にわたってつけられた分は、没後に「敗戦日記」を冠して刊行された。戦争末期の様子を記録せんとして綴られたこの1年余りの日記に、二楽荘は頻繁に登場している。

本格的な料理にも、親しみやすさが垣間見える

鎌倉の目抜き通りには、華やかな土産物店や食べ歩きを誘う飲食店が連なり、制服姿の学生から参詣帰りの観光客までさまざまな人々が行き交う。

そこから一歩路地に入ってみると、通りのにぎやかさが嘘のようにスッとひき、往時を偲ばせるどこか懐かしい雰囲気が漂ってくる。二楽荘のレトロモダンな店構えはまさに古都・鎌倉の老舗ならではだ。

独特な字体の看板やショーケース、煉瓦の風合いにも実に心くすぐられる
4代目店主 四十八願勉さん。親しみやすい話しぶりの端々から、二楽荘と鎌倉への愛着が感じられた

4代目店主の四十八願勉(よそなら つとむ)さんによると、二楽荘は、1934(昭和9)年に創業。鎌倉を訪れる人々に、地元で獲れる海の幸を味わってほしいと、中国・上海から料理人を迎え、本格的な中国料理を提供してきたのだという。

その味は、ほどなく鎌倉に滞在する各界著名人の知るところとなった。先述の川端康成、大佛次郎をはじめ多くの文学者が頻繁に店を訪れ、時に仲間と集い、ひところは、鎌倉文士のサロンのようになっていたようだ。

『大佛次郎 敗戦日記』に、当時の様子が垣間見える記述があった。1944(昭和19)年10月31日の日記に綴られた二楽荘での出来事だ。

吉野氏が来て岸君を誘い二楽荘へ行く。スラヴァヤからとどいた燕の巣を料理して貰う。
(大佛次郎『大佛次郎 敗戦日記』<草思社>より引用)

スラヴァヤ:インドネシア、ジャワ島北東岸の港湾都市。東ジャワ州の州都。

「当時のことですから、燕の巣は手に入れるのも難しければ、調理できる店もそうなかったのでしょう。『二楽荘なら上海から来たシェフがいるから』ということで燕の巣をお持ちになり、お連れの人数に合わせて調理したと聞いています」と四十八願さん。創業当時のメニュー表を見ると、確かに「燕窩之部」として5種類の燕の巣スープが用意されている。

創業当時のメニュー表。中国語のメニュー名と読み方を主に、日本語はあくまで説明文として載せられており、本格的な中国料理を扱っていたことがわかる。左下の「燕窩之部」が燕の巣スープ

宴席の「いつもの土産」と「締めの一品」

1945(昭和20)年1月6日の日記には、二楽荘での新年会と見られる様子も。

新聞の二回目を書き出したところへ山本実彦が乗り込んで来る。五時半までは時間があるのだから茶室で熱燗の酒を出し暗くなってから二楽荘へ行く。集る者里見久米長田秀吉屋信子川端康成、村上猶太郎、皆々酔う、乞食大将も威張って見せる。翌朝後悔したが考えて見れば集った者の殆全部が退役で仕事らしい仕事をしていないのだから構わぬのである。
(大佛次郎『大佛次郎 敗戦日記』<草思社>より引用)

大ぶりで旨みたっぷりの「花シュウマイ」。お土産をもらった家族の喜ぶ様子、もしかしたら自らも酒のアテにしていたのかも……と、想像がふくらむ

こうした席上で「なにか土産になるものはないか」といわれたのをきっかけに用意され、後々川端や大佛が「いつもの土産を」と持ち帰るようになったというのが、名物の「花シュウマイ」だ。

花シュウマイといえば細く刻んだ皮をまとった姿がよく見られるが、二楽荘の花シュウマイは旨みたっぷりの餡を、薄めの皮でしっかりと包んだものだ。「鹿児島県産の黒豚を使い、創業当時と同じように、今もひとつひとつ手作りしています」と四十八願さん。お土産だけでなく店で味わう人も多いメニューだけに、時には売り切れることもあるが、それでも手作りにこだわり大量生産はしないという。

川端康成が特に好んだという「えびの汁そば」。宴の最後でもするすると平らげてしまえるような、あっさりとした味わいにホッとする

花シュウマイの他にも、鎌倉文士ゆかりのメニューが「えびの汁そば」。川端康成が特に好み、宴席の締めにもよく食べたという。心地よい歯ごたえのえびと鮮やかな青菜がうれしい一品だ。シンプルな料理だけに塩には特にこだわり、やさしくも深みのある味わいを生み出している。

いつ来ても「そうそう、この味」を

本格的な中国料理を供する名店ながら、手ごろなランチメニューがあったり、料理名がわかりやすかったりとあまり格式張った感じがなく、どこか親しみやすい雰囲気があるのも長く愛される所以と見える。

四十八願さんも「私は4代目ですけれども、お客様も『子どものころ家族で食事に来たこの店へ、今度は自分の子どもを連れてきた』というように、何代にもわたって来てくださる方がいます。いつ来ても『そうそう、この味』とホッとしていただけるように、昔ながらの味を受け継いでいきたい」と気さくに笑う。緊急事態宣言で一時は休業したこともあったが、店を開けた折には、長年の馴染み客からの「開いていてよかった」、「顔を見られてうれしい」などの声とともに見せる笑顔に、とても元気づけられたという。

帰り際、鎌倉のおすすめの観光スポットを尋ねると「どこかへ行くというよりも、街をゆっくり歩いてみてください」という。なるほど、車で目的地に乗りつけるのではなく、ゆっくり散策しながら、立ち止まった小さな路地で出会いがある街が鎌倉なのだろう。そういえば、2キロメートルほど歩いたところには川端康成ゆかりの神社もあるらしい。近隣には鎌倉文士たちの足跡を辿れる資料館もある。では往年の文士よろしく、花シュウマイを土産にふらりと歩いてみよう。

【インフォメーション】

中國料理 二楽荘

1934(昭和9)年創業。北京料理をベースにした本格的な中華から、点心などのカジュアルなメニューまで味わえる中国料理店。繁華街にありながら落ち着いた佇まいで店内も広々としており、ゆったりと食事を楽しめる。


所在地/神奈川県鎌倉市小町2-7-2
TEL/0467-22-0211
営業時間/11:30~19:00
※新型コロナウイルス感染拡大により、営業時間・定休日が記載と異なる場合がございます。
定休日/不定休、年末年始
予算/花シュウマイ 528円(2個、土産用10個入りは2,376円)、えびの汁そば1,430円
アクセス/JR横須賀線・江ノ島電鉄 鎌倉駅より徒歩4分